社会に馴染めないということ

私は、この日本社会に馴染めなかった。

人が当たり前のようにできることが、私にはできない。

その結果、社会のレールから外れ、自宅に引きこもり、今もひっそりと身を潜めるように生きている。

 

私は、常に社会の片隅を生きてるような感覚を持っている。

具体的には、この社会の構成員でありながらも、この社会から一歩引いて、距離を置いて見るような、そんな感覚である。

 

社会に馴染めないというのは、どういうことか。

私の場合、それは「集団に馴染めない」ということである。

個人で完結する作業(勉強やゲームなど)には没頭できる一方で、集団での作業には馴染めず、原因不明の苦痛を感じる場面が多々あった。

 

学校生活を例に取ると、私は「グループワーク」が苦手だった。

集団(3人以上)の中での、振る舞い方がわからなかった。

授業では、何の予告もなく、グループを組まされる。

もちろん、その授業では「グループワークがある」という程度の予測は可能である。

しかし、そこで、「どのような人とグループを組まされるのか」という、より具体的な予測は立ちづらい。その人は、私のことをどのように思うのだろうか。そうした不安が常にあった。

だからこそ、私は、このような「予測困難な状況下に突如として置かれる現象」が、とにかく苦手で、グループワークの度に、トイレで過呼吸になるなど体調を崩していた。

 

私と相手というような一対一の関係であれば、私は相手を選ぶことができるし、相手も私を知っていることが多い。

しかし、グループワークのような集団での人間関係は、人を選ぶことができない。

そこにどのような人がいるのか、全く予測困難な環境下に飛び込む勇気が、私にはないのだ。

 

ちなみに、私に社会人経験(正社員経験)はない。

それも同様の理由から説明がつく。

 

集団に馴染めないということは、社会に馴染めないということである。

そして、一般的に想定された社会のレールを外れると、その生き方の選択肢は、大きく制約される。

 

しかし、私は、こうした状況を嘆いているわけではない。

私のような人間でも、工夫次第では、自分に合った生き方を見つけることはできる。

このブログでは、この社会に馴染めなかった男の生き方を、振り返り、検討しようと思う。